オリンダの滞在について

滞在期間:1995年1月〜2001年1月
滞在地:ブラジル オリンダ(1982年ユネスコにより世界文化遺産として登録された)

ブラジル レシフェ市へは、一年半滞在していたポルトガルのポルトから八時間の飛行で入国。
1994年12月31日にポルトを出発。真夏のレシフェへ1995年元旦に到着。その時の温度差30度程。

忘れもしない1月17日、その日の朝、ホテルのテレビのニュースで阪神大震災を知った。その日は、丁度レシフェ市に家具付きの賃貸部屋(ただし、3ヶ月ごとに家賃が上がるというもの)を見つけて、移動する日だった。その後、テレビを見るチャンスも無く、未曾有の大災害だったとしか私達にニュースは入らなかった。
 また、私達はそれ所ではなかった。アパート捜しでは、出会う不動産屋、大家がブラジルに無知な私達を陥れた。日本で通用する『信頼』『信用』という言葉は、ここでは日系人社会を除いて、見い出す事は出来なかった。その後、家賃があがる前に、オリンダにアパ−トを見つけて移動 滞在。オリンダでは、海沿いの風通しと明るく広い場所を選んだ。

 徹底的に騙して、お金を多くとろうとする不動産屋、シロアリに建物すべてが犯されたアパート、アパートの共益費が払えない住民が多く、ついに電気や水道を止められたアパート、等々。私達は、一年毎によりましなアパートを求めて転居した。その為のアパ−ト捜しには、不動産屋に電話をかけると『オッ その声はヤマダだな!』と覚えられる程。とにかく、大半のアパ−トは覗いた。

 それでも、ブラジルでの滞在は楽しい事もあったが、夫などピストルを突きつけれた事があるなど身の危険はもとよりうんざりする程、困難が多かった。また、そう思いたくは無いが、私達は外国人、最悪いつでも、この国から逃げる事が出来る。が、そこに住む人達の、底知れない苦労(食べるものを買うお金が無い、仕事が無い、、、)を思うとたまらないものがあった。それでも、私達は、まず自身を守らねばならなかった。

 滞在が長引くに連れ何度か日本への往復があった。丸二日掛けて日本から飛んでくるのだが 毎回、国内線への乗り継ぎに間に合った事がない。しかし、一度は時差を忘れてのんびりテレビを見ていた自分のちょんぼ。また、入国の際、日本人の列に並ぶのだが日本人から『ここは、日本人用の列よ』と言われたり、目の前に日本のパスパ−トを置いているにも拘わらず『何人?』と入国管理人より尋ねらたり、、、。
 確かに、ブラジル滞在中は、乗り合いバスひとつ乗るにも、市場で物をひとつ買うにも現地人以上に気合いが入っていた。悲しいかなその習性が、人相までも変えていたのかも知れない。

『オリンダには、泥棒が多いわよ。』『とても危険な所よ』と、レシフェに住む知り合いのブラジル人から言われていたが、滞在を通して毎日スケッチに通っていたオリンダでは、一度も危険な目にあった事がなかった。それより、殆どの土産物売りのお兄ちゃんやお姉さん、おじさんおばさんと仲良くなって、人々との触れ合いが一番多かった滞在だったと思う。(詳しくは『ペン画滞在記』日貿出版社参照)