フンザの滞在について

パキスタンのフンザには、1980年7月に初めて入域。その後、具体的には丸一年イスラマバード日本語補習校で教師をした後1982年からヒンデイ(現在ナシラバ−ド)に1985年まで農家の離れを借りて滞在。
パキスタン政府主催による展覧会をイスラマバ−ド ナショナル ア−トギャラリ−で開いた後の同年1985年から1986年まではパス−に滞在し、フンザ地域には、丸5年、パキスタンには、足掛け7年に渡る滞在となりました。

 毎日、八千メ−ター近い氷河と雪の真っ白なラカポシ山と向い合せの生活。 電気、水道のない文明とは程遠い生活は、隙間なく大自然の中でした。雪の朝は、入口の戸を開けるとそこに、狐の足跡を発見したり、、。果物の時節は、スケッチの往復は、杏や葡萄をおやつに戴きながら歩きました。

 朝昼晩と殆ど、塩茶にチャパテイの食事。ゆとりのある人は、昼夜に、ジャガイモの煮物がつく。肉は、月に一度食べるかどうかという状態。私達も、同様で毎日ほとんど同じメニューでした。
 また、村人のほとんどが回教でも、一番穏健なイスマイリ派に所属している事もあってか私達の滞在は、穏やかなものだったようです。そしてまた、宗教から来ているのでしょうか、人々の間に生きていく上での尊厳みたいなものがあって、村人には道徳がありました。
 血縁結婚の障害からか、約一軒に一人の割で障害者(口のきけない人、知恵の遅れた人など)がいて、彼、彼女達も一緒に水汲みや薪ひろい等、彼等の出来る事で村の生活に参加している事もあり、どこか皆がゆったりと一日が太陽と一緒に動いていました。

 フンザに落ち着くまでのインド放浪では、いろいろな事がありました。タ−ル砂漠地帯に滞在した時、サソリやコブラの出没に悩まされたり、あまりに遅く着いた地で泊まるところがなく駅でゴロ寝した事があります。朝、気が着くと、隣に乞食も寝ていたり、、。書いていると少しづつ思い出してきますが、追々書いて行きます。
 
(詳しくは『ヒンデイ村−最後の桃源郷フンザに暮らして』『フンザに暮らして』参照)