毎日新聞ー富山・石川版 月一回連載


「パトラック村滞在記」(最終)
3月15日2011年


入口を開け放つと、今日は戸のきしむ音がいやに耳についた。い つもの様に肌にしみ込む空気、空は霞を含んで広がっていた。
 長女ザニムヌサが呼びに来た。第一夫人が入れたミルクティと チャパティのささやかな別れの朝食。
 ほんの二ヶ月ばかりの滞在だった。夫人たちは、ジュンコの手を 取って泣いた。飲み終わると、ウマルセッドが重いリュックをひょ いと肩に掛け、左手でもう一つのリュックを持った。バス停に向か う途中、ザニムヌサは、ジュンコの手を離さず泣いていた。ジャ ウィッドもついて来た。そして、別れた。
 あれから二十数年経つ。ウマルセッドのことを折に触れ、よく思 い出した。感謝と深い敬意を抱いて。
 アフガンそしてパキスタン国境地帯への、アメリカ無人爆撃機に よる爆撃頻度が、この連載が始まった時期の二倍に増えている。そ して、つましく生きている人々、さらに女子供が殺されている。山 村では、人々の心も荒んできているという。ウマルセッドと彼の家 族は、どうしているだろう。


「パトラック村滞在記」(21)
2月16日2011年


 陽射しがとても強くなり、暑くなった。当地は標高が高いため、 夜になるとひどく冷え込む。加えて農作業の疲労もあって、風邪を 引く人を見かける。長女ザニムヌサも熱を出してしまった。でも彼 女は、ベランダの片隅に作った、小さな自分の菜園への水やりを欠 かさない。
 芥子菜の種が収穫され裸になっていた畑は、耕され、施肥され、 トウモロコシの種がまかれた。ところが、この畑を巡って遠縁の親 族が所有権を主張し、一人の男が銃で発砲し威嚇までしてきた。翌 日、ウマルセッドが州警察に訴え出ると、警官が事情聴取に来た。
その数日後、上級警官が武装した二人を従えて、銃で実力行使を仕 掛けた男を糾問に来た。 ベランダから、三人の警察官とウマルセッドが、対岸のその男の 家に入って行くのが遠望される。が、一時間程経つと、所在なげに 戻って来た。訴えられた男たちは、武装して山中へ逃げてしまい、 もはや手が出せないのだという。
 警官たちが引き上げた後、しばらくして、凄まじい夕立が通り過 ぎた。夏の到来らしい。


「パトラック村滞在記」(20)
12月14日2010年


 ねぇ、見てよ、と言ってザニムヌサは自分の髪をくしけずった。
その一すくいの櫛の歯についた小さな粒を摘み上げて、無地のベ ールの上に並べた。それは、三匹のシラミだった。

 村の夜は、とても静かだ。
遠くの川の音、そして時折通り過ぎる 風の音。戸を閉め切ると、暖炉の木のはじけるのが暖かい。
 ある夜、上方のウマルセッドの家あたりで慌ただしく人が走る音 が響いた。引き続いて女の泣き声。
しばらくすると、今度は下方の 道路で男の大声の応酬があり、ジープの走り去る音。

 ダドゥは、ウマルセッドの甥っ子。私たちの前に現れる時はいつ も高校の教科書を携え、通訳をしてくれた。
頑固で腕っぷしも気っ ぷも良く、農作業をよく手伝っていた。長ずればウマルセッドに似 た男になるんだろうなと思っていた。その彼が、強力な殺虫剤を頭 に振りかけ、爪を立ててマッサージをしたのだという。勉強に邪魔 になるから根絶するのだと。

 翌日、ウマルセッドは州都の病院から遺体とともに帰って来た。


「パトラック村滞在記」(19)
11月9日2010年


早朝、下の道路を薪を頭に載せた娘たちが通る。
しなやかに衣を 揺らして歩く姿は、朝もやを背景にとても優美だ。当地では、炊事 にそして冬の暖房に、山から切り出した薪を使う。
 ある日、暖炉脇の薪が少なくなっている事に気付いたウマルセッドが、薪を取りに行こうと言った。 対岸の山の共用地に着くと、そこは、ヒイラギの大群生地だっ た。秋には、一面に白い花が匂い立つことだろう。
 共有地の取りかかり口は、女たちの仕事場所。立ち木を根こそぎ に採るのではなく、枝が再生する様に配慮して、多くが枝打ちした ようになっていた。
ウマルセッドは、どんどん奥へ分け入った。手 が入っていない木立ばかりになってから、やっと枝を切り出した。 充分に集まると、それをロープで縛って担いだ。大男のウマルセッ ドが、私の二倍も背負って、くの字になって歩いた。急流に架かっ た無造作な橋に、緊張。

家にようやくたどり着いて、どさりと荷を 投げ出すと、やって来たのは、山羊。ヒイラギの葉を、歯を見せな がらワサワサ食った。


「パトラック村滞在記」(18)
10月12日2010年


”風が出て来たわ”
 ウマルセッドの第一夫人が、ひと抱えもあるアルミ製の大皿を抱 えて外に出た。その大皿を頭上に掲げ、少しずつ傾げると、藁埃が 風に吹き飛ばされ、下に敷かれた布の上に小豆色のシャルシャムの 山が出来上がっていった。 シャルシャムは、背丈が低いだけで、あぶら菜にそっくり。村の あちこちに点在するシャルシャム畑の花が咲くと、菜の花畑のよ う。その染めたような黄色い花弁が落ち、実を付け、初夏の陽射し に瑞々しい緑色が干上がった頃、ウマルセッドの小さな畑でも刈り 入れが始まった。
   スクッと立ち並んだ麦と違って、刈り取りは面倒だ。甥っ子達も 駆り出され、一気に刈り取る。それを屋根上まで運び上げ、全て積 み上げると、大山になった。 細長い鞘には、二十粒程の小さな赤黒い種が包まれている。 数日後、こん棒で躍りかかる様にして、万遍なく叩いて鞘から種を 落とす。男どもの手に血豆が出来るまで打ち据えた。茎や鞘を取り 除き、埃にまみれた種を掃き集めると、あの大山が、大皿一杯にし かならなかった。


「パトラック村滞在記」(17)
9月14日2010年


         * 雲隠れしていた雌鳥が、黄色いひよこを六羽従えて戻って来た。 家の前の広場で親鳥をまねて地面をついばみ、一時もそばを離れな い。休む時は、母鳥の膨らませた羽の中に隠れて、とても愛らし い。でも、目のクリリとしたシャバノウには、格好の遊び相手。必 死に逃げまどう彼らを追い回した。嬉しげな声とニワトリのけたた ましい悲鳴が響く。ところが、わぁーん、とシャバノウが泣き出し た。怒った母鳥がシャバノウの足を突いたのだ。エーバイ、エーバ イ(母さーん)と母親に飛びついて来た。ズボンをつかんだまま、 ひとしきり甘えていた。
 翌日、小さな兄弟たちと、母のショールを持ち出して乗り物ごっ こをして遊び出した。ところが、ベランダから道路へ転げ落ちて、 右大腿骨の骨折。母親は、全身を震わせて泣き喚いた。が、ウマル セッドは、うるさがってどやしつける。 まずやって来たのは、村の薬剤師。痛み止めを打ち、足に副え木 を処置して、ひと安心。それでも、親類が心配して集まってくる。 ウマルセッドは、あれほど動かしてはいけないと注意されたにも拘 らず、痛がって泣きじゃくる娘を抱いてあやし、見舞客へのサービ スに骨折の箇所を折って見せまでした。 日頃汚れ放題だったシャバノウが、新品の服を着せられて、肉だ の卵だのと、大切にされた。


「パトラック村滞在記」(16)
8月18日2010年


サウジで働く弟から、教員のほぼ年収に当たる額が送金されてき た。受け取りに、ウマルセッドが州都ディルへ出かけると、夫人た ちは家の新装を始めた。借金していた人全員にご馳走をふるまう為だ。
 良質の粘土を採って来て、細かく裁断した小麦の茎を混ぜる。囲 炉りや壁の剥落した個所を丹念に補強し、床にもたっぷり塗ってい く。内外の壁は、泥水を丁寧に塗りかける。もう、頭の先から全身 泥だらけ。合間合間に、子供に乳を飲ませながら続けられる。平生 は、パンを捏ねる大皿も水瓶も、泥で一杯。
 全て塗り替えるのに三日かかった。乾燥すると、真新しい黄土色 がはれがましい。
 ウマルセッドは、牛肉三キロ、米五キロ、じゃがいも十キロ、花 柄のテーブルクロス、妻と娘たちには腕輪、そして、アルミの水瓶 に一杯の髪油を携えて帰ってきた。翌日は、幼児含めみんなの頭 が、油でツヤツヤ黒光りしていた。

 数日後、ウマルセッドの顔が曇っているのに気がついた。借金を すべて返したら、手元にほとんど残らなかったのだろうか。


「パトラック村滞在記」(15)
7月23日2010年
ザンゴー(揺りかご)



                                                                                               お茶が入ったから、飲みにおいでよ、と声がかかった。当地の人 は、茶を飲むのがとても好きだ。家で飼ってる山羊の搾りたての乳 と、黒砂糖を入れてこってりと煮込んだ甘いミルクティ。
 ウマルセッドの甥(裁縫仕事をしている)が、茶をすすってい た。第一夫人、第二夫人の服を四枚作るらしい。

   客が帰ると、子供らは部屋から追い出され、第一夫人は部屋を掃 き始めた。土埃が、もうもうと立ち上がる。そして、ウマルセッド は、鼻歌を歌いながら物置からザンゴー(揺りかご)を取り出して きた。ザンゴーは、幼児のいるどの家にも吊り下がっている。真新 しい縄を掛けて、天井から吊り下げた。第一夫人は、もう少し高 く、もう少し低くと指示を出す。それを見た末っ子のイルターブア リが飛んで来て、早く乗せてくれとせがむ。すぐ上の三女のシャバ ヌーが、ちゃっかり先に乗り込むと、今度は泣き出してしまった。

 ぶぅーん、ぶぅーん。勝手な方向に揺れるザンゴーに乗った二人 のちびちゃんたちの、声を立てての喜びようったら。


「パトラック村滞在記」(14)
6月15日2010年


村のあちこちに、墓地がある。木柵が崩れかけた古い墓の穿たれ た空洞に、骸骨が顔を出し陽を浴びて白く光る。興をそそられてス ケッチを始めた。そこへ、ジャウィッド(八歳)がやって来るな り、大声で泣き出した。驚いて訊ねると、進級試験に落ちたのだと いう。かわいそうに、人目も憚らず三十分間も泣いていた。
 翌日、私たちが学校の先生にお茶に招かれたのを聞きつけた彼 が、飛んで来て言った。
 ねぇ、僕の試験、パスするように頼んできてね。

   パトラック村の近くに、この地方の小学生から高校生までを通し て教える、寮も備えた男子校がある。まず、パキスタン公用語のウ ルドゥ語が教えられ、回教国らしく、コーラン暗誦も必須という。 英語も五年生から教えられるが、どの学年の英語本にも、最初の項 目に預言者モハメッドの事蹟が登載される。
 帰りを、じっと待っていたのだろう。ジャウィッドは、私たちの 姿を見とめると、駆けてきた。
 ねぇ、どうだった?パスにしてくれるって?

「パトラック村滞在記」(13)
5月11日2010年


第二夫人の赤子が回復してしばらくすると、今度は、第二夫人自 身が高熱を出し、苦しそうに唸り出した。喉が腫れ上がり、それは 日を追うごとに大きくなり、熱も下がらなかった。
 私は、心配して医者に行くようにと促したが、この程度の病気 に、ウマルセッドはお金を出さないと言った。
 知り合いの高校教師は、この地で使われる岩塩が引き起こす病気 で、早期に治療を施せば完治するが、放置すると、喉の腫れは醜く 垂れ下がると言う。驚いて、聞いた話を第一夫人に説明すると、そ の時初めて、この病気のことはよく知っていると言った。
 治療しなければどうなるかを予見しながら、二人が終日家にいて 黙ったまま、何もできない。何もしないでいる。彼女らの、村の生 活のこの貧しさの怖さ。私は、背筋が冷え込むように感じていた。
 よく知らない病気に罹った人に薬を与えるのは危険を伴う。躊躇 しつつ、持ち合わせの抗生物質を服用させた。すると、徐々に熱 が下がり、喉の腫れも引いていった。


「パトラック村滞在記」(12)
4月13日2010年


第二夫人の赤子は、生まれて一ヶ月ばかリ。名をインテハールア リと言う。父親のウマルセッドが大男だから、この子も大きい。こ っそり測ってみたら、五十四センチあった。
 赤ちゃんをぐるぐる巻きににするのは、古くからの習慣のようで、 アジアの広い地域で見られる。身動きできないように縛られると、 思いのほか、赤ん坊は気持ちよさそう。母親のお腹の中にいるよう に安心するし、また、背骨が真っ直ぐにもなる、と土地の人は言う。
 私たちがこの家に滞在し始めた頃、インテハールアリは、元気が なかった。顔色が悪く、いつも宙を見るような目つき。引きつける ような、弱々しい泣き声。母親は、病気なのよ、と言った。が、薬を 服用させているふうでもなかった。
引きつけがあまりにひどく、乳を含ませてもなだめきれず、親戚 が集められた。二度の流産の末に授かったこの子と、別れになるか もしれない。母親は泣き出していた。そして、ようやくにして、医者 が呼ばれた。
 数日後、インテハールアリは、あやすと笑顔を見せた。

「パトラック村滞在記」(11)
3月9日2010年


パトラック村は、西ヒマラヤのヒンドゥークシ山群からの雪解け水 の急流がえぐり出した谷に、支流が流れ込む小さな扇状地。体調も 回復したので、遠出をして山の奥地へ絵を描きにいこうと思い立っ た。
 日用品を売るバザールを抜けると、畑が広がり、人家が疎らにな る。ところが、犬が火のついたように吠えかかってきた。犬が犬を 呼ぶ。堪らなく、丘に登って進んだ。
 山を背後にして、遠くに二三の民家が安らぐように身を寄せ合っ ていた。これは絵になる。座って描き始めると、その家から、幼童 が三人やって来た。彼らは、一丁前に脅かすように懐からナイフを 取り出して弄ぶ。横に座って静かに見ていたが、そのうち帰ってい った。しばらくすると、はるか前方の家から女たちばかりか、男も 一人出て来て、こちらに向かって何かを叫んでいる風だった。まる で、追い払うように。さすがに怖くなった。子供は、女性を描いて いるとでも報告したのか。確かに、家の前の女を描いた。大きな風 景の中のアクセントの赤い点として。


「パトラック村滞在記」(10)割礼
2月9日2010年


ウマルセッドが人差し指を立て、それをナイフで切る動作をした。 ザニムヌサも、弟ジャウィッドも、うれしそうに同じ動作を繰り返 した。人差し指は、何だろう。
 親族の家の前の広みでは、バラと紙幣の花輪を掛けた兄弟(三歳 と五歳)の周りに、見知った人たちが集まっていた。かたわらで、 白髭の男が髭剃りナイフを研いでいる。ああ、割礼だ。
 父親に両肩を押さえられて座ると、前を開け、包皮を思い切り引 っ張ってのばし、二本の竹棒で挟み両端をゴムで締めた。なるほど、 これなら、大切な部分が保護される訳だ。男は、思い切りよくスパリ と切った。今まで堪えていた児は、わぁーと泣いた。周りの連中は、 声を立てて笑った。次に男は、血が赤く滲み出している輪状の切傷 の上に、丁寧に塩を盛り上げていった。と、また泣いた。それを見 て、みんなはまた笑った。
 彼らの前にお祝いのプラオ(肉ごはん)が持ってこられたが、こ の普段元気のいい兄弟は、終日へこんでいた。


「パトラック村滞在記」(9)遊牧民
1月12日2010年


ザニムヌサとベランダに座っていた時のこと、犬が下に向かって 吠え出した。見下ろすと、遊牧民が家畜を追っていた。やにわに、 彼女は、石を投げつける剣幕で罵った。とてもいい娘なのに、どう してこんなにいきり立つのかしら。

 ザニムヌサとちびちゃんたちに誘われて、トゥート(桑の実) を取りに行った。それは、口に入れると、水々しくとろりと甘い。 子供たちの大好物だ。
 果樹園の一本に、私はよじ上った。ハート型の緑葉の付根に、 実ったトゥートがいっぱい。下では、子供たちが母の大きな黒 ショールを広げて待ち受ける。そこへ目がけて、棒で枝を打つ。バ ラバラバラ、と落ちる。これをあちこちで繰り返した。と、そこへ 羊と山羊の大群が押し寄せて来た。遊牧民だ。子供たちは、押され るように家へ引き上げて行ったが、私の方は、木の上に取り残され てしまった。眼下は、こぼれ落ちた桑の実や葉を食む、圧倒的な数 の羊と山羊の背の波立つ海原。
 動物たちが去って、ようやくにして下りると、買ったばかりのサ ンダルが消え失せていた。


「パトラック村滞在記」(8)回教への入信
12月15日2009年


 ある日、ウマルセッドが、ふと気付いたように、回教徒にならな いかと言った。
 ラー・イラーハ・イラーッラー・・・(アラーの他に神は無し、 ムハマッドは神の使徒である)、と唱えるだけでいいんだ。
 それ以来、顔を合わせる度に説得するようになった。親族の男た ち、学校の先生も連れてきた。一族の長老まで連れてきた。
 お前が回教徒になったら、ここで暮らしていけるように、土地も 用意するし家も建ててやるとまで言った。周りはみんな、善良な顔 をして頷いている。貧乏で土地も少ないのに、よく言うよ、と思い ながら聞き流したが、少年までが大人をまねてこうるさく強要し、 挙げ句の果てに、外国人の滞在を調べに来たポリスまでが、旅券を 一瞥したなり、延々三〇分も入信を説得していった。
 我慢の限界だった。もう、追い出されてもいい。やけになって、 私たちは仏教徒だと言い、蓮花座を組んで般若心経を唱えた。ウマ ルセッドはそれを見ると、静かに席を外した。それ以来、入信の話 はぴたりと止んだ。

   
「パトラック村滞在記」(7)アザーン(礼拝への呼び掛け)
11月10日2009年


                                村の礼拝所から明け方四時三十分を最初に、一日五回、アッラー・アクバル(アッラーは偉大なり)に始まるアザーンが流れてくる。男声の甘い伸びやかな抑揚が、ゆったりと谷間に響き渡っていく。この天上への誘いに、村人は礼拝所に出かけたり、または、各自が小さな敷物の上で礼拝をあげる。この辺境では、信心深い村人の礼拝する姿をよく見かけた。
 茶に呼ばれた時、ウマルセッドも時刻に敷板を取り出し、ひどく熱心に祈りをあげた。ところが、夫人達は、傍らでしらーっと茶を飲んでいた。この空気に、ひょっとして、私たちがいるからここまで熱心なのかな、と感じてしまった。そういえば、村人の礼拝が、屋根上などことさらに目立つ場所で見られた。この礼拝は、互いに、共同体の絆を確認する意味合いも持っているのかもしれないと思った。
 礼拝帰りの村人が二人、道端に座り込んで長々としゃべっていた。ようやく立ち上がると、握手をして、抱擁までして別れていった。


「パトラック村滞在記」(6)
9月15日2009年


                               ザニムヌサ(十歳)は、牛、ヤギ、鶏の世話、野菜や花の栽培、水汲み、 バザールへの買い物、そして妹弟の世話と、実によく働く。不慣れ な私たちの生活も、楽しそうに手伝ってくれた。そんな彼女に、こ んなこともあった。
 毎日、彼女と瓶を担いで水汲みに行った。もちろん、水場では洗 濯もする。ある時、布の間に隠れていた柊の葉が、彼女の手を刺し た。彼女は怒ってそれを石で粉々に打ち砕いた。それで足りないの か、水汲みに来た遊牧民の娘に悪態をついた。水まで掛けた。周り の娘たちが止めに入ると、喚いてみんなに水を掛けた。が、ずぶ濡 れになったのは彼女だった。
 ”ちょっと、”
 妹たちがそばにいないのを確かめると、昼でも暗い奥の部屋に連 れて行かれた。片隅にブリキの大きなトランクがあった。ポケット から鍵を出して開けると、中には、壊れた懐中電灯、使い古した ノート、鎖の切れたネックレス、ビーズの首飾り、破れかけた古い 服が入っていた。彼女の宝物だった。


「パトラック村滞在記」(5)
8月11日2009年


小さな部屋に二人の妻が同居。最初のころ、微妙な空気を勝手に 想像して、どう接していいか戸惑いを感じた。が、余計な心配だっ た。当然といえば当然なのだが、自然な役割分担が出来ており、そ れどころか、一ヶ月の赤子を抱える第二夫人(十八歳)が食事の支 度をする時、第一夫人(四十歳)は赤児に自分の乳首を含ませ、お しめの仕方を教え手伝い、便の色を見て相談に乗っていた。姉妹の ようにも見えた。つい、嫉妬なんて起きないの?と問うと、ないけ ど、やはり一夫に一婦が望ましいわね。と、二人は同時に答えた。
 ところが、第一夫人の長女ザニムヌサは、第二夫人イラールと事 ごとに衝突した。その度、ウマルセッドはいら立って怒った。
そしてある諍いの後、彼女が私たちの部屋に来ると、イラールは一万二 千ルピー(教職の十三ヶ月分程)だけど、ママは一万五千ルピーよ、 と誇ってみせた。そばにいた弟のジャウィッドも、ママは一万五千、 イラールは一万二千だよと鸚鵡返しのように言った。


「パトラック村滞在記」(4)
7月14日2009年


辺境のこの貧しい村でも、昔からのイスラムの慣習が色濃く残 り、女たちは親族以外の男に顔を見せない。でも、身内として遇さ れた私たちは、次第に彼らの部屋に出入りするようになっていた。
 ウマルセッドには、二人の妻がいる。親族に比べてもひどく貧し く、しかも、第一夫人に男児が二人、女児三人と、跡継ぎに問題が ない。なのに、サウジで働いている末の弟が送金してきた大金で、 兄は畑を買ったのに対して、ウマルセッドは、その金で第二夫人を 娶ったのだという。彼は、イスラムの男の夢を生きるているのか。
 麦畑が淡黄色に輝く頃、ウマルセッドは第一夫人を連れて、兄の 畑の刈り入れの手伝いに行った。ウマルセッドの畑に比べて、とて も広い。その日は、疲れ切った様子で、小麦を抱えて帰った。一握 りの麦束を火で炙り、その実を食べる。焼きたてのトウモロコシの ようにプリプリして、甘くって、とても美味しい。赤児を抱える第 二夫人が入れたミルクティを飲んだ後、二人は、ごろんと横になった。


「パトラック村滞在記」(3)
6月9日2009年


私たちに提供されたのは、一軒家。道から山裾を少し上がった傾 斜地に建てられた、石組みの新築だった。真新しい緑色の板戸を観 音開きにして、がらんとした十五坪ほどの土間に入ると、奥の壁に は暖炉があり、その横に薪が積んであった。サウジに出稼ぎに出ている弟のために建てたのだという。
親族の青年たちに、チャールパイ(縄で編んだベッド)を持ってこさせ、娘のザニムヌサ(十歳)に茶を用意させると、ウマルセッドは、休めと言ってあっけなく引き上げていった。
 目覚めると、真暗な部屋の中で、木の開き窓と入り口の木戸の隙間が、ほっほっと輝いていた。戸を開けると、ひんやりした山の空気とともに、急に光があふれる。道には、少年たちが、こちらを見上げながら登校している。
 戸を開ける音を聞きつけたザニムヌサが、飛んできた。ウマル セッドの住む家は、すぐ右手上の傾斜地にある。それを見て驚い た。土でこね上げたような、貧しい小屋だった。


「パトラック村滞在記」(2)下宿探し
5月12日2009年


ひんやりした穴蔵のように薄暗い茶店。前方に広がる柔らかな若 草色の麦畑を見やりながら、ため息をついた。どこかの庇(ひさし) を借りて休み、そして明朝、他所への移動かもしれない。茶を、こと さらゆっくりすすった。
 さあ、宿探しにかかろう。
 リュックを預かってもらい、重い気持ちを吹っ切るように道に出た。 澄み切った晴天。日射しが強い。目の前の麦の穂先に触れてみると、 軽く刺した。近寄ってきた少年たちと、埃っぽい道を連れ立って歩い た。道が大きく迂曲して村はずれにさしかかると、山際のせり出した ベランダに、大男がしゃがんで見下ろしていた。少年たちに、顎をしゃ くって、オゥ!と声をかける。少年たちは一斉に、私たちが宿を探して いると答えた。大男は、なら家に泊まれと言った。それで決まった。
 彼ウマルセッドは、パキスタンの国語ウルドゥを全く解さなかった。 少年たちを介して家賃のことを尋ねると、”ヌァ!”と、怒ったような声 が返ってきた。


「パトラック村滞在記」(1)
4月14日2009年


近年、ガザ、イラク、アフガンに住むイスラムの人々が、テロ防 衛の旗のもと、圧倒的な近代兵器によって、爆撃され、襲撃され、 めったやたらに殺されている。習慣が少し違うだけで、私たちと変 わることのないささやかな暮らしを送る人たちが、大国の“身勝手” な利の為に、何の意味も持ち得ないまま殺されている。
 私たちは、二十数年前、パキスタン北西辺境州のパトラック村 で過ごしたことがある。村の生活は、今もさほど変わっていないと聞いている。その北方の部族地域が、つい最近も、原理主義の拠点として米国機に爆撃され、何十人も殺されたという。こんなニュースを耳にする度、かの地の人たちが殺されてでもいるような痛みを感じる。
 当時、高山を描こうと、ペシャワールからアフガン国境に沿うよ うにして、北の山岳地へ入った。ところが、二日目、目的地に向か う峠が雪で閉ざされていた。下界へ戻るのも癪なので、別の谷をバ スで上った。長い峡谷が続く。急に開けると、麦畑が広がっていた。 ここがいいや、とバスを降りた。まず、泊る所を探そう。ところが、 茶店の男は素っ気なく、宿なんて無いよ、と言った。